中里はベランダにシートを引いて横になる。
友里は部屋からソファを持ってきて、ちょんと腰を下ろした。
「ほら、最高だろ? ここからの景色」
「自分の家のように言わないでよね。あたしの家なんだから」
そう言いながらも、友里の表情はすっかり緩んでいる。
テラスに出たのは久しぶりで、夜風に吹かれながら六本木の町並みを眺めているのは、確かに最高の気分だった。
「はぁーここで一杯飲んだら、気持ちいいんだろうなー。でも冷蔵庫の中、何も入ってなかったし」
だからといって、わざわざ買いに行く気分にもなれなかった。
「酒か? ん、ちょっと待て」
そう言うと中里はテントに入って、何やらゴソゴソと探し始めた。
「……ほら、ワインがある。グラスと栓抜きはあるか?」
「え、ホント? うん、持ってくる」
友里は小走りでリビングに戻っていった。
しばらして、グラスとつまみの袋を抱えて帰ってくる。
「栓抜きは見つからなかった。どっかに梱包してるはずなんだけど」
「あーそれなら別に構わない。俺にはこの『10徳ナイフ』があるからな」
中里は、じゃじゃーんと効果音付きで取り出した。
「これは便利だぞ? 通常のナイフに、缶切りに、栓抜きに……うーん、あとは知らん」
「全然、10徳じゃないし!」
中里は器用にコルクを抜くと、トクトクとグラスに注いでいく。
「乾杯ー!」
カーンとガラスとガラスがぶつかる繊細な音が響く。
「これ、何て言うワイン?」
一口飲んで友里が訊ねる。
「ふふふ……驚く無かれ。何と、ボジョレーヌーボーだ」
中里は胸を張って言う。
「あ、そう言えばそろそろ解禁だっけ」
「いや、一昨年のだけど」
「それって全然ヌーボーじゃないし!」
友里は呆れた表情になって、ソファにもたれ空を見上げる。
「……一年経つと熟成されてコクがでるんだけどなぁ」
一人呟く中里の声は、静かな夜とワインの芳香に溶けていった。
****
「ねぇ……まだなの?」
友里はグラスを揺らしながら訊ねる。
「うーん、時間的にはそろそろのはずなんだけど」
三日月は西の空に輝いていたが、金星はまだ見つからない。
その間、全天88星座の神話を面白おかしく語れると豪語する、中里の話が続いていた。
そして7星座目で友里はギブアップした。
「じゃあ地球から見た天体で、明るい順に3つあげるとしたら、何だと思う?」
今度は天体クイズに変わったようだ。
「明るい順? 確か……おおいぬ座のシリウスだっけ」
「確かに恒星で一番明るいのはシリウスだな」
中里は「恒星で」の部分を強調して言う。
「あ、そっか。月があったか」
友里はポンと手を打つ。
「そう。そして当然といえば当然だが、1位は断トツで太陽だ」
「なるほど……で、3位はシリウス?」
「いや、3位はマイナス4.5等星の『金星』だ」
「へぇー金星ってそんなに明るかったんだ」
友里は感心して頷く。
1等星上がると星の明るさは約2.5倍になる。
マイナス4.5等星なら1等星の100倍以上の明るさだ。
「あぁ、だから見逃す訳はないんだが……ちょいと待てよ」
中里はポケットからGPSを取り出す。
そして神妙な顔になった。
「……念のため聞くが、今日は何日だ?」
「え、9月6日だけど」
友里が答えると、中里はしまったぁと言って頭を抱えだした。
「ちょっと。一体、どういうこと?」
「やられた地球トリックだ……やつに騙されたよ。なぁに日付変更線さ」
中里は手の平を上げて言う。
「東から西にまたぐ時は、日付を1日増やすんだった。昨日は嵐がすごくて、それどころじゃなかったんだ。オールも折れちゃったし」
そう言って中里はテヘッと舌を出す。
「テヘッじゃないわよ、全く」
友里はグラスに残っていたワインをクイと飲み干した。
「……それに一体、貴方何処から来たのよ」
金髪男の不法侵入と、その後の警察からの事情徴収もあって、すっかり遅い時間になっていた。
「そう言えば、不思議に思ってたことがあったんだけど」
部屋着に着替えた友里は、髪をかき上げながら言う。
「何故あの時私が、警察に電話をしようとしてるって分かったの?」
「あの時?」
あぁトイレから出た時か、と中里は頷いて口を開く。
「それは簡単だ。状況を考えれば、君が電話する先は、警察か身近な知人ってとこだ」
「それだけ?」
友里は首を傾げる。
「勿論、決定的な証拠じゃない。この家はプッシュホン回線だろう」
「あ、そっか。音の数ってこと?」
「勿論それも一つだけど、それもまた決定的な証拠じゃない」
中里はゴホンと一つ咳払いして続ける。
「プッシュホンの音は、2つの音程の組み合せで作られていて、数字毎に違うんだ。ちなみに110番は『ピッピッパ』になる」
「へぇーそうなんだ」
友里は感心したように頷く。
「そして交換機がその音を識別しているって訳だ。つまりプッシュ信号の音をマスターすれば、自分の声で電話をかけることも可能だ」
「まさかぁ」
友里は口元を上げて笑う。
その態度が中里には心外だったようで、頬を膨らまして言った。
「どうも信じてないようだな。携帯持ってるだろ、番号は幾つだ?」
「え、携帯?」
友里は一瞬眉を寄せたが、ま、いいかと呟いて番号を言う。
「090、9335の――」
「了解」
中里は番号を暗唱すると、口を窄めるような格好をして、子機に向かって話し始めた。
「パッピッパッ、ピッパッパッポッ……」
友里は疑いの目付きでその様子を見ていた。
「……ボッポッピッパッパッ」
数秒後、友里のバッグから音が鳴り出した。
「えっウソ!?」
画面に表示された番号を見て、思わず目を丸くする。
中里は実に満足げな表情だった。
「すごい! 貴方って意外な特技持っているのね。……あーもしもし。ねぇこれって他にどんなことに使えるの?」
友里は携帯の通話ボタンを押して、興奮気味に話し始める。
それを見て、中里はやれやれといった感じで、子機を耳に当て答えた。
「いや、他には特に……」
「それではまた明日連絡します。失礼します」
そう言って2人組の警察官は、男を抱えるようにして連行していった。
「ありがとうございました」
友里は頭を下げて礼を言う。
バタンと玄関のドアが閉まると、ふぅーっとため息を付いて、リビングに向かった。
さっきまで騒がしかったのが嘘のように、部屋の中はシンとしている。
ただ、いつも通りといえばいつも通りの状態だった。
ほっとしたというのが本音で、寂しいなんて訳がない。
「ほら、警察行ったわよ」
友里は虚空に向かって言う。
すると収納の中からガタガタと音がして、扉が開いた。
「うわー暑かったー!」
飛び出すように中里が出てくる。
「そんなの着てるからでしょ? 暑いなら脱げばいいのに」
中里の寝袋を指して言う。
「本当に脱いで良いのか? この下はスッポンポンなんだぞ」
「っ……バカ。やっぱり貴方も一緒に警察に突き出せば良かった」
友里はプイと横を向く。
「し、信じられない言い草だ、助けた恩も忘れて。アメリカだったら裁判ものだぞ?」
「はいはい。何も言わないであげたんだから、チャラでしょ。警察の人にベランダのテントについて聞かれた時は、本当にパニクったんだから……」
「立派なテントじゃないか!」
「そう言う問題じゃないし。まぁいいわ。警察の人もいないんだし、もう出て行って。勿論テントも全部片付けて」
「はっ、俺がか?」
「そうよ、とりあえず今日は何処かホテルにでも泊まればいいんじゃない」
「そんなお金あるか! YENだろ? あいにくユーロしか持ってねぇよ!」
「えぇっ。じゃあ貸してあげるわよ、特別に」
「何言ってるんだ。そもそも論点がずれまくりだ」
中里は大きく手を広げて言う。
「今日は金星が月に接近するっていう『二つ月』の日なんだぞ? 5年に一度しかない夜だ。それにこの家のテラスは、方角も西南と絶好なんだ」
「意味分からないわ。とにかく早く出て行ってよ! 何ならお金は返さなくていいから」
友里は財布から一万円札を出して、テーブルにバンと置く。
「これだから資本主義って嫌だよ! そんなに言うなら君が出て行けばいいじゃないか! 友達の家にしろ、彼氏の家にしろって……あっ」
しまったという顔になる。
「ゴメン……」
「わざわざ別にいいわよ」
友里は下を向いて言う。
「そういう色々なことがあったから、今日は家でゆっくりしたかったの。まぁいいわ、あたしがホテルに行くわ」
友里は冷静な口調になって上着を手に取った。
中里はもう一度テラスの方を見て、そして彼女を呼び止めた。
「いや悪い、そこまで気が回らなかった。やっぱり今日は家でゆっくりしてくれ」
「……えっ」
「まぁ俺はテントがあるから、何処でも野宿できるし。二つ月は次のチャンスを狙うよ」
そう言って中里は、テントを片付けにバルコニーへピョンピョンと跳ねていった。
友里はその背中を無言で見ていた。
短い時間に幾つもの表情を変えながら。
「待って」
そしてため息を付きながら続けた。
「仕方ないわね。でもベランダ限定だからね」
「ん?」
「全く……ま、今夜は一人でいるのもちょっと不安だったしね」
友里は言い訳をするようにそっと呟いて言った。
「やっぱ転ばぬ先のキャンプ用具だな」
中里はテントロープで器用に縛っていく。
男は完全に気絶して泡を吹いていた。
「ふぅーこれでよしっと。こいつ、知ってる奴か?」
振り返って、ベッドの上の友里に訊ねる。
友里はふるふると首を振る。
まだショックが残っているようで、魂が抜けたような顔をしている。
「一体……どうやってこの家に……?」
ポツリと友里が呟く。
エントランスの自動ドアは、居住者がいれば一緒に入ることは出来る。
だが、玄関のドアはオートロックだった。
「入った方法? ……ふむ、なるほど」
中里は顎に手を当ててゆっくりと頷いた。
「今日来る時に、エントランスでソファを運ぶ作業服姿の男とすれ違った」
そしていつものように何の脈絡も無く、話は唐突に始まった。
「顔は覚えてないが、金髪だったのは覚えている。これがまず一つ。そしてこいつはかなり良い体格をしている」
中里は男の横にしゃがむ。
「つまり引っ越し作業にかこつけて、合い鍵を作ったってところが妥当だろうな」
そう言って男のポケットの中を探った。
「ほら、あった。これで入ってきたんだろう」
ポンと鍵を投げる。
友里は呆然とした顔でそれをキャッチする。
そして中里は財布の中から従業員証を見つけて、読み上げていった。
「やっぱりこの男の職場は引越センターだったな。自分の仕事を悪用するなんて、何て下衆な奴なんだ」
ふんっと吐き捨てるように言う。
「それに『俺のエビちゃん』だなんて……好みまで物好きときたよ。やれやれ」
そう言ってため息を付く中里を見て、友里は唖然とした顔になった。
しかしすぐに表情を戻し、立ち上がる。
「で、どうするこの男?」
汚らわしいものを見るように横目でちらりと見る。
「どうするって?」
「マスコミとかには知られたくないけど……やっぱり警察に連絡した方が良いわよね」
「け、警察!?」
「ちょっと何よ……貴方、警察の話になるとキャラ変わるわよね……って!」
「ふぎゃあ!」
手に飛びついてきた中里を、友里は思い切り蹴り飛ばした。
「まさか貴方、何か犯罪を?」
「いや……よく指名手配顔って言われるが、決してそういう訳では無い。ちょっとやむにやまれぬ事情があるんだ」
中里は複雑な表情で言う。
「相変わらず意味不明ね。でも、やっぱり警察呼ぶしか仕方ないわよね」
そう言って友里は携帯を取る。
「警察は! け、警察は!」
縋るような目で見てくる中里に、友里は思いっきり眉間にしわを寄せた。
「きゃぁぁぁーーーーーーぁっ!」
中里がテラスのテントに戻った時、部屋の方から絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。
「やべっ」
慌ててナップサックの中にあったものを掴み、室内に戻る。
リビングに友里の姿は無かった。
中里は争うような声がする方へ急ぐ。
奥の部屋に着くと、ベッドの上で馬乗りになっている男の後ろ姿があった。
「いやっやめて……きゃあっ!」
そして男の下に組み伏せられている友里の姿が見えた。
中里は迷うことなく男の腰めがけてタックルする。
「ぐわっ!」
勢いのままに、男と共にベッドから転がり落ちる。
中里は直ぐさま起き上がり、振り返る。
友里の顔面は蒼白で、衣服は多少乱れていたが、怪我は無いようだった。
「……まさかこんなプレイってことも無いよな」
中里は冗談のように呟いて、友里に下がっているようにジェスチャーした。
けれど友里はすっかり足がすくんでしまったようで、ベッドの上から動くことが出来なかった。
「てめぇ……」
男が感情のこもった声と共に、ぬくりと起き上がる。
先程のタックルで、頭をぶつけて逆上しているようだった。
立ち上がると中里より10センチは大きく、首から胸部にかけての筋肉はアメフト選手のように隆々と盛り上がっている。
そして一番の特徴の金髪は、頭上のシャンデリアに照らされて煌々と光っていた。
「てめぇエビちゃんの男か?」
金髪の男が中里を睨む。
「んな訳ないだろ」
中里はそう言って、後ろの友里を見る。
友里もプルプルと首を振っている。
「よくも俺のエビちゃんを……」
「全く聞いてないし」
男の目は血走っていて、完全に焦点を失っていた。
そして近くにあった木製の椅子を掴むと、中里めがけて思いっきり振り回した。
フゥッ――。
――ドスンッ!
「うわっと!」
よろけたのか飛び退いたのか、中里はすんでの所で躱す。
空を切った椅子はそのまま壁に激突した。
脚がめり込んで、壁に穴を開ける。
「うわっ! よくも俺の新居を……」
中里の言葉を気にした様子も無く、男は強引に壁から椅子を引き抜いた。
べキッと音を立て、壁紙は大きくめくれ上がる。
「…………」
ぬらりと友里の前に立つように、中里は男に正対した。
そして先程ナップサックから持ってきたものをゆっくりと背中から引き抜く。
「ブーメラン!?」
友里は目を丸くする。
「世の中には……やっていい事といけない事の二つがある……」
中里はぶつぶつ呟きながら、男に向かってブーメランを構える。
男は思わぬ武器に驚き、椅子を前に出して防御する。
「――今回は……後者だっ!!」
そう叫びながら、手首のスナップを効かせて思いっきりブーメランを投げた。
ヒュンと風を切り、ブーメランは弧を描く。
「うわっ外れてるしっ!」
友里の言葉通り、ブーメランは明後日の方向に飛んでいったかのように見えた。
男のかなり上方。
そして、その上方にはシャンデリアがあった。
ガシャーン!
ものすごい音と共にブーメランが直撃する。
そしてシャンデリアを支えていた金具が切れ、男に向かって落下した。
重さは五キロ以上あるので、頭部に直撃したら一溜まりもない。
男は「うっ」といううめき声を上げて、その場にバタリと倒れた。
「まじ……っ?」
友里はポカンと口を開けて、信じられないといった目で見ている。
中里はパンパンと手を叩いて、ふーっと前髪に息を吹いた。
「ふん、狙い通りだ。とはいえ狙ったとこに行ったのは、初めてだけどな……」
