急に空気が変わったことに、松本も気付いた。
張り詰めた、極限まで弓を振り絞ったような重い緊張感。
後方の足音は、もう確実に二人の耳にも聞こえていた。
曽我は松本を引きずるようにして歩いていく。
ひゅうと何かが投げられた音がした。
避けるつもりがよろけて、二人とも顔面から倒れる。
顔を上げると、幹にはナイフが突き刺さっていた。
そしてその後ろに人の姿があった。
「……なぁんだ、曽我さんでしたか」
予想もしない明るい声。
曽我は即座に転がっていた枝を拾って構える。
「いやぁ、身構えないで下さいよ。
俺です。あれ、松本さんも一緒なんですか?」
二言目でようやく曽我は声の主に気付いた。
場にそぐわない愛想の良い声は、普段の鈴木雄大の声だった。
鈴木は木に刺さっているナイフを引き抜いて言った。
「逃げるから、てっきり生徒の誰かだと思っちゃいましたよ。
こんなことしてしまって申し訳ないっす。
でもこっちも焦ってるもんで」
鈴木は左手の装置を見せて眉尻を落とした。
アンプルがこぼれたので、他の講師より発症する時間が早いことは佐々木に言及されていた。
教室にいた時の鈴木は、思い詰めたような顔をしていたが、今は打って変わっていつもの表情に戻っているようだった。
しかし自身の血で真っ赤に染まった上半身が、血の気の無い笑顔に映え、不気味な様子を醸し出していた。
「そんなに硬い顔しないで下さいよ。
僕らは“仲間”じゃないですか。
それより曽我さんたち知りません?
誰でもいいんで、生徒《あいつら》の居場所を」
鈴木は器用に手元でナイフを回しながら言った。
「それについてだけど俺に考えがあるんだ。
雄大くんにも協力してもらいたいんだけど」
鈴木は興味を引かれたように、手元のナイフを止める。
「教務の言う通りに、俺たちで争い合うなんて馬鹿げてるだろ。
こんな無意味なことは止めようぜ。
そして講師連中はもちろん、生徒達にも声掛けて、何とかしてあいつらに対抗する方法を考えるんだ」
曽我の言葉を聞いて、鈴木はガッカリしたように肩を竦めた。
「……すみませんが、俺はその話には乗れません。
俺には皆さんよりも時間が無いんで」
はっきりとした意見の相違だった。
松本も何とか鈴木を説得しようと口を開く。
「だからって生徒を殺してまでアンプルを手に入れるなんて、さ……?」
「いや、別に殺す気はありませんよ。
素直に渡してくれるんなら。
ただ俺は、β種のアンプルが一刻も早く欲しいだけです」
その表情を見て、二人は説得は不可能だと悟った。
鈴木のいつものような笑顔には、普段には絶対にない、ぎらついた目が輝いていた。
「すみませんね、お二人に協力したいのは山々なんですが。
また生徒の情報分かったら教えて下さい。
じゃあ俺は行くんで」
鈴木はナイフを懐にしまうと、元来た斜面を登り始めた。
そして二、三歩行ったところで、思い出したように振り返った。
「あ、そう言えば松本さん?
チーちゃんらしき生徒の集団を、海岸の方で見掛けたって波野が言ってましたよ。
……まぁ俺もさすがに彼女をどうこうしようなんて気はありませんから、安心して下さい。
それじゃあ」
そう言って鈴木は手を挙げると、今度こそ林の中に消えていった。
食事が終わると地図を広げる。
どうやらここは周囲二十キロ程度の島のようで、島全体が一つの山になっていた。
その頂上にあるのが校舎で、海までなだらかに山道が続いている。
反対側は崖なので、校舎は天然の要塞に位置していると言えた。
入り口さえしっかりと銃で固めておけば、他に侵入できる所は見つからない。
加えて中にはウイルスと、二重、三重にも防備されているのだ。
もう校舎に戻るという選択肢はなかった。
もちろん対抗できるだけの武器も持っていなかったが。
暗くなって何も見えなくなる前に、食料と今夜寝る場所は確保しておきたかった。
おそらく長期戦になるだろう。
それはプログラムの性格上予想が付いた。
松本としては一刻も早く智佐と合流したかったが、夜間無闇に動くのは危険だと思った。
見つけるのも困難だろうし、もし出会えたとしても表情の見える日中の方がずっといい気がした。
今はお互いアンプルを奪い合う関係なのだ。
もちろん松本にはその気は無いし、智佐も同じだと信じたい。
しかしつまらない誤解から争いごとになりかねないリスクは避けたかった。
地図によると、山道を道なりに下っていくと、幾つか旧民家があるようだったが、同様の理由でここは避けることにした。
先発している生徒達が先乗りしている可能性は高い。
こちらに争う気持ちはなくても、自分たちのテリトリーに侵入し、アンプルを奪いに来た敵だと誤解されてしまう危険は多分にあった。
松本は改めてこのプログラムの恐ろしさを感じた。
まるでハブとマングースのように、本能的に互いを敵だと認識してしまっているのである。
たとえ両者に争う気持ちが無くても、いつその均衡が崩れるかは分からない。
どちらかが発症してしまったら、すぐにでもアンプルを求めるだろうし、発症する恐怖に負けた瞬間、相手の喉もとに飛びかかるかもしれない。
そして曽我の意見で、このまま斜面を突っ切って沢に降りていくことになった。
沢に降りるのは遭難時は禁則とされているが、今回は状況が違った。
松本が満足に動けない今、山道を歩いて誰かに出会う危険は避けたかった。
そして何より水源と食糧の確保のためだった。
「うっ……」
立ち上がるだけで松本の額には脂汗が滲み、声が漏れた。
しかしこのままここに居続けるのは、死を待ち続けるのと変わらなかった。
いつまた木村が戻ってくるかもしれないし、曽我が簡単に松本を見つけられたように、他の誰かにも見つかる可能性はあった。
松本は気力を振り絞って足を踏み出す。
しかしその気力も一歩ごとに萎えてしまいそうだった。
只でさえ足場が悪い道なき道。
踏み出すごとに太ももには激痛が走る。
「急ごう」
曽我が無情な言葉を発した。
否、彼は厳しい表情をしていた。
「上の方で人の気配がした。早くこの場から去らないと……」
松本の状況を分かっていて、それでも口にした言葉だった。
松本は頷き、曽我の肩を借りながら斜面を下りていく。
「あいつらとしては、室長の命より大切なものがあったってことだろうね」
松本はようやく落ち着いてきて、周りの状況が少し見えるようになってきた。
血の気が引いた分、頭の中が少しクリアになったのかもしれない。
「そして奴らはおそらく、七十二時間以内に決着を付けさせたいんじゃないのかな」
勝利、優勝候補と、やたら勝ち負けにこだわっていた気がした。
松本としては、七十二時間後に全員発症して終わる可能性も考えていたが、教務はその結果を望んでいないように見えた。
「あぁ、その通りだと思う」
曽我は、大金が動く賭けについて佐々木が臭わしていたことを話す。
賭けを成立させるためには、このプログラムを制限時間以内に終わらせなければならない。
つまり七十二時間以内に、講師チームもしくは生徒チームのどちらかが全滅しなければならないということだった。
「それは最悪な終わり方だな」
智佐は生徒チームに属している。
自分と彼女どちらか一方しか生き残れない結末など、彼としては望むはずもなかった。
「……もちろん俺もそうだ」
曽我は自身の考えを松本に話す。
自分たち講師と生徒、全員合わせてこのプログラムで勝利すると。
そして敵は生徒ではなく教務たちだと。
松本は何とも曽我らしい考え方だと思った。
そしてその意見に全面的に賛成だった。
しかし全員が曽我と同じ考えを持っているとは思えなかった。
現に松本は木村に襲撃されているし、生徒の死亡者も出ている。
曽我はその事に気付いているのかと思ったが、胸の内に収めることにした。
このプログラムは一端悪い方に考え始めると、切りがなかった。
それが教務の狙いなのかもしれない。
つまるところ、疑い始めると自分以外に信じられる人間は一人もいなくなってしまうのだ。
「曽我くんの武器は何だったの?」
松本はリュックのチャックを開けながら訊ねる。
「ちらっと見ただけだが、どうやら手錠っぽかった。
全く……ふざけやがって」
曽我はリュックに視線を向けずに言う。
余程車内で自由を奪われていたことがトラウマになっているのだろう。
松本も同じ状況だったが、あれはあれでもう二度としたくない体験だった。
リュックには、五百ミリリットルのペットボトルの水が二本と、地図と懐中電灯とライター、固形のカロリーメイト一箱が入っていた。
三日分としては水も食料も少なすぎる気がした。
「足りない分は現地調達しろってことかな?」
「どうだろう。奴らのことだから、それも他の人から奪えってことなんじゃないのか」
なるほど、と松本は思う。
アンプルを奪わないと死ぬという危機感は、なかなか湧いてこないものだ。
異国のウイルスなど、まだ信じられないところもある。
しかし水や食料が無いという状況は、誰でも容易に想像することが出来るものだった。
奴らが何とかして自分たちを争わせたいという意図が、より裏付けられた。
「だから――」
曽我は立ち上がって松本の方を振り返って言う。
「だから俺は、出来る限りこのプログラムに“参加”しないことにした。
あいつらの思い通りになんてなってたまるか。
だからこの中の物も自分のためには使わないし、食事も外で何とかするか……我慢する」
松本はその言葉を、自分にはとても我慢出来ないと思って聞いていた。
というより、もう半日近く何も口にしていないはずだ。
体は猛烈に空腹を訴えている。
松本はあっさりと、カロリーメイトの封を開ける。
「フルーツ味かぁ……なかなかいけるな」
ボリボリと音を立てて食べる松本を、曽我は横目でじっと見ていた。
松本が視線を向けると、曽我は見ていないという風に顔を背ける。
松本は半分折って曽我に差し出す。
「……これは松ちゃんに貰ったやつだからな。
決してあいつらに貰ったやつじゃない」
目一杯言い訳しながら、曽我はガシガシと食べていた。
「何でこんな事になったんだろう……」
松本の声は静かな木立の中に吸い込まれていく。
日は落ち、時刻は夜の五時、六時くらいだろうか。
怒濤のような出来事が、半日のうちに起こっていた。
そして明明後日の日没まで、更なる激化が予想された。
――何が間違って、こういう事態になってしまったんだろう。
松本は次々と降りかかってくる厄災に、自分が誤った行動をしたせいではないか、と思うようになっていた。
あの時ああしとけば、ああしなければ。
振り返り後悔することで、何とか現実と折り合いを付けようとしていた。
そして曽我ならば何か答えを返してくれると思っていた。
「分からん……俺も全く分からない」
曽我の声も力無いものだった。
そして一瞬躊躇った顔を見せた後、静かに口を開いた。
「廊下にあったもの、見たか?」
「いや、何か視界には入ったけど……何だったの?」
「生徒の一人が殺されていた。
死因は何か分からない。
外傷があったのかもしれないし、ウイルスの発症によるものなのかもしれない。
そして彼のアンプルは取られていた」
「…………」
松本は言葉が出てこなかった。
望月の死も、自身が襲撃されたこともまだ信じられないでいた。
そして実際、生徒に死亡者が出たということも。
果たして「死ぬ」とはどういうことなのだろう。
それすらよく分からなくなってきていた。
「何でこんなに簡単に人が死ぬんだ。
許されていい訳がない。
それに……少なくとも望月はあいつらの仲間だったはずだ」
それは松本も疑問に思っていたことだった。
望月が何かを話そうとして殺された。
それは分かった。
そして手を下したのは佐々木ではなく、副校長だった。
「いくらマズいことを話そうとしたからって殺すか?
それもその挙げ句、惨たらしく放置したままなんて」
曽我は自身のジャケットを望月に掛けてきた話をした。
松本が意外な行動に感心していると、曽我は曖昧に首を振って答えた。
「……いや、違うんだ。
本当言うと望月に同情してやっただけじゃない。
いや、初めからそんな気持ちは全く無かったのかもしれない。
俺は奴らに……一矢報いるチャンスを探していたんだ」
「あっ」
その言葉で松本は講師室の光景を思い出した。
そして教務の二人がドアの前で手に持っていたものを。
「何とか望月の銃を手に入れて、あいつらに立ち向かおうと思ったんだ。
でも結局見つけられなかった。
恐くなって、すぐにその場を離れちまった」
曽我は気まずそうに顔を歪める。
それでも松本は曽我の行動に驚くばかりだった。
まさかあの場で一人きりで対抗しようと考えていたなんて。
自分は先のことばかり考えていた。
どうやってアンプルを手に入れ、どうやって智佐と合流するか。
それは知らずのうちに佐々木の言葉に乗せられていたということになるのかもしれない。
曽我が優勝候補と目され、教務たちから特別視されていた理由が分かったような気がした。
そうして数分間地面を叩きながら、松本は自身の痛みにもがき苦しんでいた。
木村に裏切られたという心の痛みは、実際に撃たれたことによる肉体の痛みで掻き消えていた。
上方でがさがさっと葉が擦れる音がして、ようやく松本は気が付いた。
ここで声を上げていたら、今度こそ生徒の格好の的になるということに。
「…………」
両足とも撃たれ、しかも武器は無く丸腰の状態だった。
松本は蒼白になって、這うようにして木の幹を掴む。
そして何とかこの場から移動しなければと思った。
「松ちゃんか? 松ちゃんなんだな?
何処だ、何処にいるんだ」
突然自分の名を呼ばれビクッと震える。
しかしその声は紛れもなく信頼できる男の声だった。
松本は木の幹にもたれ掛かるようにして、口を開く。
「……曽我くんか?
こっちだ、下の方だと思う」
曽我はすぐに斜面を滑るようにして降りてきた。
そして幹を背にしゃがみ込んでいる松本の姿を見て、目を丸くする。
「お、おい、まさか……?」
「あぁ撃たれちまった……。
それも木村にな」
松本は自嘲気味に言う。
曽我の表情は、更に驚きの色を増していた。
しかしすぐに自身がすべき行動に気付いたようで、リュックを下ろして松本に近付く。
「ちょっと我慢しろよ」
松本は片目をつぶって頷く。
曽我は矢柄を掴むと、躊躇いなく引き抜いた。
「ぐあぁぁぁあぁぁぁっ!」
松本の絶叫が木立を縫って響き渡る。
矢尻からは糸を引くように血が垂れていた。
曽我はリュックに入っていたペッドボトルの水で患部を洗浄すると、ワイシャツの袖を破って、ぎゅっと右足の付け根を縛った。
「これで血は止まるはずだ。
あとは一時間おきに少し緩めて、血を通わせる必要がある。
ま、ブラックジャックを読んだ知識だけどな」
松本は悶絶しながらも、口元で笑みを作って感謝の意を示した。
左足の方は弾が完全に貫通していたらしく、思っていたよりは軽傷のようだった。
「それにしても木村が、か……」
松本の治療を終え、曽我も幹に寄り掛かりながら口を開く。
「あぁ今思えば、あいつらしいと言えばあいつらしい。
あの時はとてもそんな風には思えなかったけどさ」
松本は自虐したように笑う。
木村は松本を撃ち武器を奪っていったが、命までは取ろうとしなかった。
徹底的に合理の下に自己の利益を追求するという、木村の性格がよく表れていた。
「だとしても信じられないぜ。
まさか仲間を撃ってまで武器を奪おうとするか……?」
曽我と木村は基本的な考え方は似ていたが、決定的に異なるところがあった。
それは松本ははっきりと気付いていた。
どちらも論理的に行動する姿勢は変わらないが、木村が自己の利益のみを求めるのに対して、曽我は集団の利益の最大値を求めようとするのだった。
もちろんその集団には本人も含まれているが、全体の利益を優先するために、自己の順位が下がることさえあった。
周りがいて初めて自分がある、という実に彼らしい考え方だった。
自分は何を第一に考えているのだろう――松本は心の中で自問した。
