話しながら、携帯、無線機、ヘッドランプ、GPSの電池を、念のためそれぞれ予備のものと交換しておく。
強風の中、手袋をしていては、とても替えられないだろう。
二人はあんパンと魚肉ソーセージを食べながら、温かい紅茶を口にする。
「あと、一合だね」
「あぁ、ようやくここまで来たな。でもこっからが厳しいぞ」
「……うん。それにしてもさ」
松本は携帯を胸ポケットにしまって言う。
「露ちゃんの声には、随分助けられたよね。コース指示もすごい的確だったし」
「確かに。俺たちは二人だけで登っているんじゃないってな。俺と、松ちゃんと、露ちゃんと……そして中里も含めて」
「うん……」
「あっ、木村忘れてた! そうそう。六合目の難所でへこたれそうになった時、木村からの電話でバックに流れていた――」
「気付いた気付いた! ロッキーのテーマでしょ? もう目頭が熱くなって、前が見えなくなっちゃったよ」
「それ駄目じゃん!?」
一頻り笑い合った後、二人は帰ったら真っ先に何がしたいか、同時に言い合うことにした。
曽我が「ゆっくり風呂に入りたい」と言ったのに対して、松本は大きな声で「セックス」と叫んだ。
自分でも思ってもないほど、大きな声だったので、松本は後から恥ずかしくなってきた。
曽我は「それだけ元気なら安心だ」と笑って、外に用を足しにいくため、立ち上がった。
松本もヘッドランプを持って付いていく。
一歩出た瞬間、暴風と共に、急激な寒さが襲ってきて、慌ててジッパーを上げる。
風速が一メートル増す毎に、体感温度は一度下がるという。
つまり、風速二十メートルの風があると無いでは、体感にして二十度の差があるのだ。
相変わらず外は、雪と風が踊り狂っていて、身を切るような寒さだった。
しかし濃い霧は消え、視界は開けていたので、これなら動けそうだった。
「うわぁ、ベッタベタだぁ」
松本は尿が凍ってしまうのを怖れて、自分の一物に紅茶を掛けながら、用を足していた。
しかし強風のせいで、尿も紅茶も上手くコントロール出来ない。
しかも、紅茶の糖分が思ったより肌にべたついて、酷く後悔した。
曽我はその様子を笑って見ながら、普通に小用を足していた。
尿も体温と同程度あるのだから、まさか凍らないだろうと思っていたが、地に着いた先からどんどん凍っていったのには、かなり驚いた。
「なぁ……何か聞こえないか?」
不意に曽我が目を細めて言う。
「何かって、何?」
松本も耳を澄ましてみたが、聞こえるのは風の音と、避難小屋が揺れる音だけだった。
改めて外から見ると、思った以上にみすぼらしい作りで、突風が吹く度、みしみし音を立てている。
「何か腹に響くような、低い……」
松本はフードを外して、耳に手を当てる。
「…………」
そう言われれば、何かゴオゴオという音が聞こえる気がする。
心なしか足場も少し揺れている気がした。
音のする山頂の方向に目を向ける。
「何だ……あれ?」
闇が迫ってくるような感じだった。
地響きを立て、全てのものを呑み込みながら。
もう音は、はっきりと松本の耳にも届いていた。
「――――雪崩だ!」
松本の声は、風の音と轟音にかき消される。
闇の固まりは、こっちに向かって真っ直ぐ近付いてきている。
「早く! 横に滑って逃げるんだ!」
曽我は素早くジッパーを上げて、避難小屋に走った。
「そ、曽我くんは!?」
「……俺は荷物を取ってくる!」
「荷物って、今はそんな時じゃ……!」
「ザックが無きゃ、結局は死んだも同じだ……行けえっ!」
曽我の姿は、避難小屋の中に消えていく。
足元から腹を揺さぶるような音に振り返ると、闇はもの凄いスピードで近付いてきていた。
雪の波だった。
立ち上がった松本よりも何倍も大きい、巨大な雪の波だった。
「ぁああああぁぁぁぁあぁっ!」
松本は大声を上げて、雪崩と逆方向に走り始める。
真っ直ぐ行っても、すぐに追いつかれるのは目に見えていたので、波の外に出るように、斜めに滑り降りていった。
体も足も心も、何もかもが重かった。
力が入らない。
やがて轟音と共に、松本の身体は白い波の中に飲み込まれた。
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