>やたーテスト終わったよー!
>これから友達と打ち上がりにいっくよーん。
祥子とその子が上手くいっていないようなことは、祥子の口ぶりから朋也も何と
なく分かっていた。
娘の方としても、急に出来た新しい母親など、なかなか受け入れられないだろう。
祥子は出来るだけ彼女の母親になろうとしてきたみたいだが、決して上手くは
行っていないようだ。
そして昨日、その娘さんと喧嘩をしてしまったという。
リビングの家具や小物が大破するほどの大喧嘩だったそうだ。
「大切にしてた花瓶まで割れちゃったし」
祥子はしゅんとした目で言った。
そして間を取り持つはずの夫は、忙しくて殆ど家にいないのだ。
そりゃあ祥子さんも浮気したくなるよな――朋也は他人ごとのように、そう思った。
その時、何か引っかかった気がして、朋也は口を開いた。
「祥子さん、その花瓶ってガラス製?」
「うん……そうだけど」
「怪我とかしてない? ほら、大喧嘩って言ってたし」
「うん、別に大丈夫だったけど、でも――」
祥子は眉を曇らせて言う。
「私は大丈夫だったんだけど、あの子はひょっとすると……破片がすごく飛び散っ
ていたし」
「そう、なんだ」
「あの子そのまま学校行っちゃったから、分からないままなんだけど……でも、ど
うして?」
藪から棒な問いに、彼女は疑問を覚えたみたいだった。
これ以上変なことを言うと、不審がられてしまいそうだ。
――まさかな。
何処の家庭でも、同じような喧嘩が起こっているんだな――そう思いながら、朋也
は半分残っていたカプチーノをぐっと飲み干した。
>シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ
>シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ
智佐が左手の人差し指を押さえて言う。
「どうしたの、一体?」
朋也は居間から救急箱を持ってきて、絆創膏を渡す。
「今朝、ガラスでザクッと切っちゃってね。動かしたらまた血が出てきちゃった」
智佐が傷口を見せて言う。
かなり深く切ったようで、一度塞がっていた傷口が開いてしまったようだ。
「あーこれはちゃんと消毒しておかないと」
朋也は消毒液とガーゼで、智佐の指を丁寧に消毒していく。
智佐は感心した様子で朋也の手つきを見ていた。
「ほぇー、先生はチサの学校の先生だけじゃなくて、病院の先生でもあるんだね」
「まだ浪人中の身だけどね」
朋也は絆創膏を貼りながら苦笑する。
「先生なら今年は絶対受かるってー! 卒業したらパパの病院で働いてもいー
し。うんっ、そうだよ。それならチサともずっと一緒にいられるしね。となると
チサはお医者さんのお嫁さんかぁー」
智佐はうっとりした表情で朋也を見つめてくる。
「あ、あぁ……」
朋也は出来るだけ目を合わさないように、智佐の指先に集中した。
手当が終わると、裸のまま抱き合うようにベッドに寝転ぶ。
こうするとお互いの表情が見えない。
「ガラスで切ったって言ってたけど、どうして?」
朋也は、何となくはぐらかされていたことを聞いてみる。
「今朝ってお母さんと喧嘩した時?」
「…………」
智佐はどちらの問いにも答えず、絆創膏が巻かれた指で朋也の胸をとんと突いた。
そして突然こう言った。
「……先生、浮気してる人ってどう思う?」
ドキリと朋也の心臓が音を立てる。
動揺を悟られないように、朋也は出来るだけ自然に返す。
「え、浮気って何? いきなり」
質問を質問で返すのは、答えにくい質問を受けた時の対処法である。
先ほど、何か失言してしまったのだろうか。
思い返してみるが、朋也には特に思い当たる節は無かった。
「ドラマとかでよくあるでしょ、不倫とか」
智佐は淡々と言う。
表情は分からないが、怒っている時の声ではないようだ。
智佐は朋也の胸の上で、人差し指をつつーっと滑らせている。
なんだドラマか、朋也は胸をなで下ろして言う。
「あー不倫ね。昼ドラとか? チーちゃんには全然関係無いでしょ? どーした
のまた」
実は結構、関係あるのだが――なんて本音はもちろん出さず、朋也は訊ねる。
「先生は許せる?」
「どうだろなー。結婚自体したことないしね。想像が付かないな」
可もなく不可もないだろう答えを返す。
「あたしは……」
そう言って智佐は言うのをやめてしまった。
少し待ってみたが、続く言葉は無いようだった。
智佐は黙ってまま、相変わらず彼の胸の上でしきりに指を動かしている。
――何かの文字だろうか。
「…………」
朋也は自分の胸に意識を向け、愕然とする。
智佐が書き続けていたのは、「シネ」の2文字だった。
土曜は出席しなきゃいけない授業は無い。
よって毎週のように祥子とランチを食べている。
「祥子さんの家の方は大丈夫なの?」
朋也はフォークでアラビアータを巻きながら訊ねる。
「あの人、土日はいつも忙しいから。週末は殆ど帰ってこないし。あ、そうなん
だけど――」
祥子は何かを思い出したように、朋也を見て言う。
「普段はそうなんだけど、明日はちょっと家の用事で出掛けなくてはいけなく
なって。夜からだから、少し早めに帰らなきゃいけないんだけど……」
祥子は申し訳なさそうに言う。
月に一度、日曜日に都内のホテルをとって、二人で半日を過ごす。
高級ホテルのセミスイートの部屋だが、祥子が払ってくれている。
明日はその月に一度の日だった。
「あ、うん。いいよ」
朋也としても願ったり叶ったりだった。
もちろんそんなことは全く顔に出さなかったが、世の中流れがある時は自然に良
い方向へへ向いていくものなのだ――と朋也は思った。
巻き過ぎていたスパゲティを半分落とし、口に運ぶ。
「…………」
「……どうしたの、祥子さん?」
祥子が小さく息を吐いたのを、朋也は見逃さなかった。
「えっ」
「そういや今日会った時から少し、浮かない顔してたみたいだけど」
「そう? 別に何にもないけど」
祥子は口を結んで笑う。
しかし朋也には何処か寂しそうな笑顔に見えた。
「家のこと?」
敢えてタブーを犯して聞いてみる。
二人の関係上だろうか、お互い相手のことは詳しく知らなかった。
祥子の家のことは、彼女自身あまり話さなかったし、朋也も出来るだけ聞かない
ようにしてきた。
彼が知っていることといえば、彼女は二年前、裕福で年上の男と結婚し、そして――
「娘さんのこと?」
血が繋がらない娘がいることぐらいだった。
「…………」
無言の間が流れる。
祥子は静かにフォークを置いて、降参したように口元を緩めた。
「……やっぱり、トモくんにはみんな分かっちゃうんだね」
そう言った彼女の笑顔は、やはりとても淋しそうで、朋也は抱きしめたい気持ち
で一杯になった。
